AIに色々とブログの企画を考えてもらっていたりしたのですが、その中の「神社仏閣巡り✕音楽」の組み合わせでAIがこんな企画を考えて下さったので、やってみたいと思います。
境内で聴く一曲――己龍「螢」と仏教的まなざし
今回、境内でそっと流したい一曲として私が選んだのは、己龍の「螢」でした。
この楽曲には生と死、そして「生きること」への深いまなざしが込められていると感じました。
静寂を乱さず、調和する音
ヴィジュアル系には、激しい音やショッキングな表現が含まれる曲も多くあります。
しかし、寺社という静かな空間に不協和音を持ち込むことは避けたかったため、選曲には慎重を期しました。
その中で「螢」が持つ和風の旋律、そして繊細な歌詞の世界観が、仏教的な空気と調和するのではないかと思い至りました。
歌詞に宿る「無常」と「慈悲」
この曲を改めて聴いてみると、特に心に残ったのは次の一節です。
故に「生きた意味」に縋り
「生かされた意味」が誰かの
「生きる意味」と
成り行くのでしょう
この言葉には、誰かの命が誰かのために繋がり、存在の意味が循環していくという、どこか仏教的な価値観を感じました。
人の命は決して自分だけのものでなく、誰かを支える「縁」となりえる。まさに「縁起」の思想に通じるものがあるのではないでしょうか。
また
生きて生きて死すべき日に
大いに笑い逝きましょう
という歌詞や、
私として私を生き
私のままに死のう
という歌詞も印象的です。
これらのフレーズは、生きることを肯定し、やがて訪れる死も穏やかに受け入れようという姿勢に感じられます。
「今ここに在る自分」を肯定し、それをそのまま大切にするという教えは、仏教における「あるがまま」の精神を彷彿とさせます。
外側の価値観ではなく、自らの心を見つめる姿勢が歌詞から伝わってきました。
音と自然と仏が溶け合う空間へ
「螢」という曲は、単に美しい旋律を持つだけでなく、その内面には深い問いや祈りのようなものが込められています。
そうした楽曲を聴くのであれば、都会の喧騒を離れた自然豊かな寺院がよく似合うのではないかと思いました。
私はまだまだ訪れたお寺の数が少ないのですが、もしこの曲を聴くなら、広島市にある三瀧寺が良さそうだと感じます。
鬱蒼とした木々、せせらぎの音、湿った石畳の静けさ……そうした自然の息遣いが、曲の持つ儚さや優しさをより一層引き立ててくれそうです。
音楽と祈りのあいだに
寺院で音楽を聴くという行為は一見アンバランスに思えるかもしれませんが、それは音楽の選び方ひとつで大きく変わります。
「螢」のように、心を落ち着け、生きることと向き合うきっかけを与えてくれる楽曲は、むしろ祈りの時間を豊かにしてくれるのではないでしょうか。(ただし、マナーとして先に参拝は済ませ、境内を散策する時にイヤホンでひっそりと味わいましょう)
その空間に流れる音楽が、風や水音と溶け合い、仏の声と重なる――そんな瞬間を想像してしまいます。
リンク
己龍「螢」が収録されているアルバムです。

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